父母会戦記 第2回

今回は、戦後の保育施策を概観し、所属する船橋市保育園父母会連絡会の成り立ちまで辿りました。戦後の救貧的性格の保育所から、日本の復興・経済成長につれて労働力確保のための保育所へと変化していきます。しかし、国が求める女性労働力程度の保育施策が実施されていきました。

戦記より~

 都内へ通勤する核家族・共働き世帯が増えているにもかかわらず、当時の市内の保育園は3歳以上を対象(1963年から1歳以上3歳未満児の受け入れへと拡大)とし、午前8時30分から午後4時の開所時間では母親が働けないという状況にあった。社会学者の山縣文治は、このような状況について「社会が必要とする程度の労働力」であり、決して女性の自立あるいは権利保障としての就労ではなかった、と指摘している。

大学時代は、私自身が一生働き続けたいという想いから、女性がイキイキ働き続けられる社会になるための施策を研究してきました。当時問題視したのは、社会保険の扶養から外れる「130万円の壁」などの税制でしたが、保育政策にしても、国(社会)が女性に求める程度の労働力を確保するための保育施策であったことに愕然としました。

先日起きた、保育園送迎バスでの置き去り事件の悲劇。後方に非常用ブザーの導入など義務化を検討しているようですが、それだけでは解決しないし、それよりも戦後から変わらない保育士配置基準などの見直しを急ぐべきです。また、保育園は従来より父母の送迎を基本としていますが、付加サービスによるバス送迎も増えてきました。国はマニュアル示さないまま多くの保育園送迎バス走り出して何年にもなります。

来年度からの子ども家庭庁設置を機に、しっかり労働力確保政策としての保育施策ではなく、子どもど真ん中の保育政策になることを期待しています。

第二回 延長保育は父母会からはじまった | 「父母会戦記:保育園がなくなる日」今仲希伊子 | web ふらんす (hakusuisha.co.jp)